ウーゴ・ムラス 《ロイ・リキテンシュタイン》

 気づけば自分も表層ばかり見ている。誰とつながるにしても、その人とふれあっている時間の多くはメールやSNSTwitterが占めている。直接声を聴いたり会って話したりするなんて、人間関係のなかでどのくらいの割合だろうか。
 メールもSNSTwitterも、文字列とイメージの集積だ。機械に入力した文字にどれほどその人が反映されているのか疑わしいし、「わかりやすい」写真群はどう頑張っても表層しか見られない。でも、こんなに慌ただしい世の中だからそれは宿命だし、それで関われる瞬間が増えるのなら幸せではある。これほど僕たちの世代に広まったものに、古風で陳腐な疑問を投げかけて、今更たぶん意味はない。でも時々そうしたくなる。そうしなければならない予感がする。
 ウーゴ・ムラスの1964年の写真《ロイ・リキテンシュタイン》を見た。写っているのはアメリカン・ポップアートの画家、ロイ・リキテンシュタインと、彼の作品《アポロの神殿》だ。
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 画家はアメリカン・コミックの描き方を特徴とする。画家曰く、コミックの絵は「なにかの絵のように見えるのではなく、物そのもののように見えるのです」。僕たちは日々のなかで、まわりにある物をいちいちじっくり眺めたりしない。それぞれを何気なく見、表層のイメージを持っている。コミックの絵は、そのイメージを巧みに切り取り、紙上に焼き付け呈示してくる。だから、物そのもののように見える。
 従って、実在の物がコミックに描かれた場合に「物そのもの」に見えるとき、その物は僕らが何気なく見ている物、表層イメージを持っている物でなければならない。アポロの神殿は古代ギリシアの偉大な建造物であり、もともとそんな物ではない。しかし戦後のアメリカ大衆消費社会のなか、この美術上の権威も例にもれず、雑誌や広告によって、大衆にはその表層が焼き付いた。
 だからこそ、リキテンシュタインの《アポロの神殿》もまた、「物そのもの」のように見えてしまうのだ。現物と見比べると、形こそ似ているがディテールはかなり省かれている。それにもかかわらず、だ。
 広告や雑誌で用いられ、アポロ神殿のこうしたイメージ化に寄与したのは疑いなく写真である。写真は「断片」だから、1枚の写真それ自体が状況を語りつくすことはない。それが物語となるためには、ほかのものからの説明が要る。
 先にも書いたが、写真を見るときはどうしても「写真に写っていること」、その表層ばかり見てしまう。というか、それ以外を見るためには想像力と知識に頼るしかない。写真を見ることで僕たちのなかに形づくられる被写体の印象は、写真に存在する表層イメージに大きく依っている。
 写真に写ること、そしてその写真が流布されることは「自分の表層=自分」として人々のなかに焼き付くことを意味する。ムラスの写真でリキテンシュタインが口元に含ませる奇妙な笑いは、この事実への前向きな諦めにも感じられる。リキテンシュタインは写真家の写真によって、アポロ神殿が辿った道、自分自身が絵画で捉えたアポロ神殿の運命を自らも歩む可能性を背負ったのだ。写真家の写真など、世間に広まるに決まっているのだから。
 リキテンシュタインはそんな表情を、こちらを見つめながら浮かべる。それを見ていると、僕たちを取り巻く今の状況を50年前から予告していたような気さえしてくる。昔はまだ、表層がイメージとして定着するなど、有名な物たちだけの話だった。それが今では、僕たちみなも互いに表層ばかり見るようになった。そしてそれが当たり前になり、表層から伝わることが印象の大部分を占めていても、別に違和感はなくなった。
 大衆社会のなか、表層ばかりがイメージを構成する事態そのものも、大衆のなかの人々が相互に背負うこととなった。その意味でまたひとつ、大衆社会得意の「階級差の無効化」が達成されたともいえる。
 マリリン・モンローが亡くなって、先日で50年経ったそうだ。彼女は、大衆消費社会での表層のありようを今もなお、アンディー・ウォーホルの作品などとともに語り続ける人物だ。表層でしか捉えられなくなった彼女が、おそらく決して幸せではない最期を遂げたことを思えば、今の状況に対してなんだか厭な予感もしてくるのだが、それは考えすぎ、だろうか。