作文「国際交流について」

 「国際交流」というフレーズに、毎日何度も出会う。そこでは決まって、その必要性が訴えられている。一刻もはやく子どものうちから国際交流に加わらなければ日本がたいへんなことになる、というようなことを、有識者とよばれる人々が言い、政府が言い、それに乗じてマスコミや広告業界も言う。そうした様子なので、大部分の日本人は、国際交流は緊急の課題だといつの間にか刷り込まれ、国際交流を欲するようになった。
 国際交流とは世界各国の人々と交流をもつことである。それは疑いようもなく良いことだ。異なる価値観を知ることで自分の居場所を客観的に見るためにも、さまざまな文化に触れて見識を広げるためにも、非常に意義がある。
 ここで重要なのは、国際交流のためには必要なものがあるということだ。すべてに先んじて交流があるのではない。そこに要素が揃って交流が生まれるのである。
 「交流」を英語に訳すとき、一般にcommunicationをあてるが、この言葉の語源は、共通している・共有しているという意味のラテン語communisである。すなわち交流とは本来、同じものを持つものたちの交わりをいうのであって、交流が生じるためには、そもそも互いが等しい立場にいなければならない。加えて「交わる」とは互いに触れ合うことであり、それはどちらかが一方的に欲するだけでは成立しない。相手に興味を抱かせるようなことを互いが行い合った上に、交わりが生まれるのである。
 従って交流は、それを目指す者同士に、少なくとも次のようなことを求めている。すなわち、自分と相手をともに尊び、どちらかを特別視しないことと、面白い活動を試み、相手に興味を抱くことである。国際交流もまた交流の一形態であるから、この基盤の上に成り立つ。
 しかし、いまの日本の国際交流を巡る状況を鑑みると、このような交流の根幹が忘れ去られているようである。それを端的に示しているのが、皆が口々に国際交流の推進を唱えるあの事態だ。背景には、多くの日本人が抱く危機感、すなわち「グローバル化」の波に乗り遅れているという焦りがある。実際、国際交流の必要性が唱えられるとき、決まってそこには、日本は世界から遅れているのだ、というような文言が付随している。これが証拠である。
 私は別に、日本はまだまだ世界のリーダーであるからそんな心配は無用だ、などと言いたいのではない。そうではなくて、国際交流が訴えられるもとを辿ると「日本はダメだ」というクリシェに帰着するようでは、真の交流は決して実現しないと言いたいのだ。
 自国はダメだ、というような価値観もまた、卑下しているという点で自らを特別視する態度であり、交流の条件である平等性を自ら破壊するものである。そのうえ先述のように、交流は互いが互いの行動に興味を抱いて生まれるものなのだから、国際交流を目的にして国際交流を目指しても意味を為さない。
 似非の国際交流が推進されてきた歪みが、現在日本に生じている気がしてならない。目的と予備知識が乏しいままに、ぼんやりとした焦燥感と夢に駆られて留学する人々が多いのも、いまひとつ成果の挙がらない英語教育・国際教育の氾濫もまた然りである。どれも日本はダメだという神話、それも、交流そのものを否定する神話に支えられているため、結局真の国際交流は達成されず、目立った成果も得られない。
 日本もまたひとつの国であって、それ以上でも以下でもない。このことを忘れないと同時に、世界のなかで自分にしかできないことを追究できたとき、健全な自尊心と他者への真摯な眼差しが保たれ、真の国際交流への扉が開かれる。いま日本に、そして私に、その扉を開く姿勢が求められているのである。