デイヴィドソンのメタファー解釈論の背景についての考察

 「赤ちゃんは春である。」という文がある。これは文字通りにとれば誤りである。辞書で「赤ちゃん」を引いても「春を指す」とは書いていないし、「春」の項には「赤ちゃんの意」とは載っていない。しかし「赤ちゃんは春である」という文に「確かにそうだ」と同意する人もいるはずだ。そういう人は、たとえば次のように考えているのである。「赤ちゃんはひとつの命のはじまりである。春は新たな季節のはじまりである。だから『赤ちゃんは春である。』と言える」と。
 メタファーというものがある。日本語では隠喩と呼ばれる。「AはBのようだ」の形をとる直喩とは対照的に、比喩であることを明示する言葉(例:「~のよう」)を用いずに「AはBだ」の形をとるのが隠喩・メタファーである。メタファーを用いた文は斬新に見え、読み手にインパクトを与える。そうして隠されたメッセージを考えさせる。
 先ほどの「赤ちゃんは春である。」に戻ろう。この文を「正しい」と考えた人は、この文にメタファーが使われていると思ったのである。そうでなければ、文字通りには偽である以上「正しい」と考えることはありえない。
 ここでひとつの疑問が生じる。一見偽である文章にメタファーが使われていると考えることができるのは、いったいなぜか。どうしてそのまま「誤りだ」と思わないのか。
 ひとつの考え方として、「春」に文字通りの意味とは別の「メタファーとしての意味」がもとから備わっているのだ、とするものがある。「春」には「新しい季節のはじまり」というメタファー的意味がはじめから存在する、それを読み手が知っているから「赤ちゃん」と繋げられる、と考える訳である。しかしメタファーの効果は、一見意味不明な文の裏にあるものを読み手に考えさせることにあった。メタファー的意味があらかじめ決まっていては、辞書にある意味となにも変わらず、そうしたインパクトも生じない。
 哲学者ドナルド・デイヴィドソンは、この問題を解決するメタファー論を遺した。それによると、「赤ちゃんは春である。」という文は単に「赤ちゃんは春である。」ということしか示さない。そこにメタファーとしての意味が生まれるのは、「赤ちゃんは春である。」の正しさを信じて疑わない気持ちをもつ人間が都合よく独自に解釈した結果なのである。だからこそ「赤ちゃんは春である。」は読み手に思考を促すメタファーとしての効果も保持する。
 私はデイヴィドソンがそのような考えに至った経緯を知りたいと思った。人間の考えることにはみな、それを生じさせた背景があるものだ。デイヴィドソンのメタファー論の背景はどのようなものなのだろうか。
 デイヴィドソンの主張のひとつを語るとき、フィールド言語学者の話がよく使われる。フィールド言語学者が未知の言語らしきものを解明しようとする。そのとき、相手の発することの意味は自分の状況把握とつじつまの合うように考えていくしかない。目の前に現れたウサギに未開の部族が「ガヴァガイ」と言ったならば、言語学者は自分がウサギを見ていることを元に「ガヴァガイ」が「ウサギ」のことではないかと考えるしかないのだ。このことからデイヴィドソンは、人間が相手の発言を理解するときには、結局自分の見ているもの(ウサギが目の前にいること)は正しいと思い、自分の信じていることに依拠して相手も同様にそう信じている(自分も相手もウサギをひとつのものとして捉えている)と考えるしかない、と強調した。それゆえ「相手が自分とはまったく異なるものの見方を持っているかもしれない」という考え方は成り立たない。なぜならその可能性を考えてしまうと何の推測もできなくなり、結局「何の意味もない」からである。
 このデイヴィドソンの主張は「まったく異なるものの見方というものが存在する」という科学哲学界の論への批判としてなされたものだった。いま見てきたように、彼によれば「まったく異なるものの見方」という考え方は不成立なのである。 
 この「われわれの信じていることは大抵正しいとし、それをもとにするしかない」という考えは、明らかに彼のメタファー論に影響を及ぼしている。彼のメタファー論では、文そのものはその通りの意味しかもたない。それを読む人間が「この文は一見偽であるが、メタファーが隠されているのではないか」と信じ、「自分の信じているような考え方を、文を書いた人物も持っているはずだ」と思い、それらをもとにその文をある固有の意味を持ったメタファーとして解釈するのである。
こうしたメタファー解釈は、まさに「われわれの信じていること」を「もとに」した行為である。メタファーについての議論は、言葉そのものにメタファー的意味があるという考えによって閉塞していた。その中でデイヴィドソンが突破口を見いだせたのは、別の問題に際して「推測の中心にわれわれ自身を据える考え方」を編み出していたからにちがいない。
最後に私自身のデイヴィドソン的メタファー解釈論について思うところを述べれば、「やっかいだなぁ」という感想に尽きる。非常に筋が通っている論であるゆえ受け入れざるを得ないが、ある文をメタファーとしてとるか、とるならどのように解釈するかが、人もしくは文によって千差万別になり、個別の事例をひとつひとつ検討しなければならない。文学部生として文の解釈に携わる私にとって、これは非常に面倒な話である。しかし自分がデイヴィドソンの論に感心してしまった以上は従うしかなく、半ば諦観の境地である。