「芸術」の分類的意味に関する考察

 「芸術(Art)」ということばのふたつの意味を最初に指摘したのは Morris Weitz *1 であり、それを発展させたのは George Dickie *2 であった。彼らのいう「芸術」のふたつの意味とはすなわち、分類的意味(classificatory sense)と価値的意味(evaluative sense)である。たとえば、ある流木を見た誰かが「これは芸術作品だ」と言ったとする。このとき、「彫刻作品に似ているなど、流木が芸術作品の性質を有する」ことを言いたかったのならば「芸術」の分類的意味が、「芸術作品が有するとされる美しさや完璧性、独創性などを流木が有する」ということを言いたかったのならば「芸術」の価値的意味が、それぞれ使われているとする理論である。

 さて、西村清和著『現代アートの哲学』 *3 のなかでは、この説明に異議を唱えた M. W. Rowe に、著者自身が反論している。以下ではこの議論を検証する。

 まず Rowe の論は、この本によれば次のようなものである。

( Rowe によれば)ナイフのような道具のばあい、たんにその外見によってではなく、それがわれわれに対してもつ一定の定義、つまりナイフとしての機能をもつかぎりで、その名前と定義があたえられているという。その名前で呼ばれるものが、「なんによいか」ということは、最初からその定義に含まれている。ナイフとは、まずは「切るのによい」ナイフであり、この意味で、すでにして「よいナイフ」のことである。それゆえ、あるものがナイフと呼ばれるためには、すくなくともそれが、ナイフとしての機能にかんして一定の水準をもっていなければならないが、この水準は、あるものがナイフであるための「分類上の規範」として、それはつねにひとつの価値評価をふくむ。悪いナイフとは、ようやくこの水準に達するようなナイフであり、たいへんよいナイフとは、この水準をはるかに卓越するナイフである。同様に、あるものが芸術作品と呼ばれるためには、それが一定の水準の「美的観照によい」かぎりのことである。

これに対して筆者は次のように述べる。

ロウのこの主張には、「よい」ということばにかんして混同がある。かれがナイフの定義にふくまれているとする「よい(good)」とは、じっさいには「切るのによい」というばあいの「役立つ(good for)」という意味である。つまりそれは、ナイフの機能上の水準に言及するものとして、あるものがナイフであるとされるための分類上の規範を指示している。一方、「よいナイフ」あるいは「ナイフとしてよい」というときの「よい」は、すでにナイフとして認定されたものの、ナイフとしての端的なよさの等級にかかわる価値判断であり、分類上の水準ないし規範にかかわる「よい」とはただちにおなじものではない。そして、ふつうわれわれが分類・記述というのは、あるものが「ものを切る」という一定水準の機能にかんして、ナイフと呼ばれることができるかどうかの認定である。

 本題に入る前に、ここでの筆者の Rowe の主張の解釈について考えておきたい。 Rowe の「なんによいか」「切るのによい」の「よい」は明らかに「役に立つ」の意味である。しかし「よいナイフ」の「よい」は筆者のいうように「等級がよい」の「よい」だろうか。 Rowe が「よい」の意味を混同しているとするならば「よいナイフ」の「よい」は「等級がよい」の意であろう。しかし Rowe の主張の主旨をみる限り「よいナイフ」の「よい」も「役にたつ」の意味と解釈するのが妥当ではないか。実際 Rowe は、ナイフとしての機能を持つものは「切るのによい(役立つ)」という意味で「よいナイフ」と呼べる、と言っている。 Rowe は「役立つ」という判断そのものに「価値」判断の要素をみているのだから、「よいナイフ」の「よい」も「役立つ」の意だとみるのが自然ではないのか。

 たしかに筆者がこのように解釈したのもわからなくはない。 Rowe は「悪いナイフとは~」以降の記述で、「よい(役立つ)ナイフ」どうしでの比較に移る。ここで「悪いナイフ」「たいへんよいナイフ」と彼が呼ぶときの「悪い」「よい」は、筆者の指摘する通り、よさの等級に関わる価値判断である。

 従って、筆者のいうように Rowe はふたつの意味で「よい」を用いているが、それは「悪いナイフとは」を境にわかれている。それゆえ、 Rowe が筆者の指摘するとおり「混同」していたかどうかは、この本をみる限り何ともいえないのである。 *4

 さて以上のような議論の行き違いを鑑みると、「ものが機能をもち、ある名でよばれる時点で価値判断が生じている」という Rowe の考えを筆者が理解していないような気もしてくるが、実際はそうではないようである。それが示されているのが、つづく箇所である。

なるほど、ものの機能自体をひとつの価値と見ることも、できないわけではない。…だが、「これはナイフである」という命題を記述とし、「このナイフはよい」を価値判断としてくべつすることが、ことばのつかいかたとしても、われわれのじっさいの経験としても、ふつうではないだろうか。

 たしかに、「これはナイフである」という命題は分類・記述であるし、「このナイフはよい」は価値を判断している。しかしいま問題なのは、「これはナイフである」に価値判断が含まれているか、いないか、という点である。

 さまざまなかたちのものがあるとする。そのなかで切るのに役立つものがあった。これをナイフとよぶことにした。このとき、ナイフとよばれるこのものは、ほかのものにはできないことができる点で明らかに「価値がある」。価値とは「どのくらい役に立つかの度合い」である。ナイフとナイフでないものを比べれば、もの切る機能についてナイフに「価値がある」のは当然であろう。

 筆者はここでの論で、ナイフどうしの比較のうちでしか価値判断が成り立たない、としている。しかし、われわれのじっさいの経験としては、ほかのものにはないある機能をもつもの(もちろん、おなじものどうしのなかで、ではない)を「価値がある」とよぶこともふつうではないのか。筆者は、

われわれが分類・記述というのは、あるものが「ものを切る」という一定水準の機能にかんして、ナイフと呼ばれることができるかどうかの認定である。芝居の小道具のナイフは、ナイフのかたちはしていても、まったく切れないからナイフではない。

という。芝居の小道具のナイフは、たしかに分類の上でナイフと呼べないが、それと同時に、なにかを切ろうとする状況の下では切る役目を果たせないのであるから、その場合(ナイフと比べて)「価値もない」のである。じっさい、誰しもがなにかを切ろうとして小道具のナイフがあったとき、「無価値だ」とがっかりするだろう。

 ここで言いたいのは、われわれが価値の有無をいう場合には、ふたとおりの状況がある、ということだ。ひとつは、ものがある機能をもっていることを価値とよぶ場合。もうひとつは、おなじものどうしのなかでその機能が優れていることを価値とよぶ場合である。そして、前者の意味の価値を認めて「芸術」とよぶときには分類的意味を用いており、後者の意味の価値を認めて「芸術」とよぶときには価値的意味を用いているのである。

 だからこそ「芸術」という語にまつわる混乱、すなわち、分類的意味として用いているつもりが価値的意味として用いていたという混乱が生じやすいのである。比較対象はちがえど、「芸術」とよび得るものは常にどこかの状況下では「価値を持つ」からである。またナイフとちがって「芸術」の場合、「分類的価値」の基準は「価値的価値」の基準とある程度重ならざるを得ない。「価値的価値」の基準である美しさ・完璧さ・独創性などをはかる際は、分類する際に重要なそのものの形状にも大きく依らなければならないのである。このことも先の「芸術」にまつわる混乱のおもな要因であろう。

 さまざまな場面でいわれる通り、「芸術」は純粋に分類的意味で用いづらい語である。それはそもそも昔から「芸術」という語であらわされるものは大抵、美しく、完璧で、独創性にあふれていたからである。代わって純粋に分類的意味で用いやすい語として登場したのが「アート」であった。しかし「アート」とよばれるものもまた、ほかのものにはない「アート」とよべるだけの「(分類的)価値」があるのであり、「芸術」という語と同じ混乱に陥る可能性は少なからずある。「アート」の語が純粋に分類的意味のみを保持しつづけるための Dickie の「制度理論」の行方もまた、注視したいところである。

*1:The Role of Theory in Aesthetics/1959

*2:Aesthetics: An Introduction/1971

*3:産業図書/1995

*4:Roweのもとの論文が入手でき次第、再度検討したいと思う。