ルネ・マグリット 《恋人たち》

 ルネ・マグリットという画家がいる。20世紀を代表する、シュールレアリスムの画家である。物体をありのまま丁寧に描く画風。しかし、描かれているもの同士の関係があまりにも奇妙であり、そこに隠されたものを、考えずにはいられない。
 マグリットの作品に「恋人たち(Les Amants)」と題されたものがある。

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画面上で2人の男女がキスをしている。しかし、彼らの顔は、それぞれ白いシーツに覆われ、その顔のつくりや表情を窺い知ることはできない。
 この絵が、先日読んだ身体論にまつわる本*2のなかで、挿入図として用いられていた。いったい身体論とこの絵が、どう関係しているのか。

 「人間は他者との対比の上で自己を規定する」とは、よく言われることである。他者がどのようであるか、それに対してじぶんはどうか、それをもとに、人間は自己を形成するのである。ゆえに、他者がどのようかを知ることができなくなると、持っていたはずの「じぶん」は揺らぎ始める。他者をもとに自己を構成する営みは、絶えざる更新を背負うから。
 描かれている恋人たちは、シーツで覆われたことによって、見ることも聴くことも嗅ぐことも禁じられている。彼らに有るのは、間接的な(それが恋人の唇だと信じるしかない)感触のみである。外的なものを知覚することが、もうほぼできない彼らは、そこに居るのがほんとうに愛する人か、という疑問が湧くだけではなく、じぶんの存在それすら、わからなくなっているにちがいない。

 恋人同士とは、ふたりの人間の心が織りなす関係のことであって、それぞれが自らの心を通わせ合うことを含む。そこでは、各々が自己を形成していることが最低条件としてあるはずである。
 「じぶん」を見失った者同士がキスをする状態。いまや彼らは「恋人たち」と呼べるのであろうか。「恋人たち」である事実が融解した今、彼らが画面上で行う行為は、いったい何の意味を持つというのだろうか。

 この絵が持ついちばんの奇妙さは、ここにある。そして、このように考えると、この恋人同士と呼んでよいかわからない状況に「恋人たち」と題をつけた、この画家の意図のひとつが、すこし輪郭を帯びてくる。
 言葉によって「恋人たち」と与えられ(しかも「恋人たち」という言葉が指すものは、人々の中で比較的明確・単一である)、画面上にいる者はそれぞれ男女の装いをし、恋人関係の証であるキスをしている。これほどまでに固められた状況に鑑賞者が置かれると、鑑賞者はとりあえず、ここに描かれた人間を「恋人たち」と捉える観念に拘束される。しかし、実際「恋人たち」と呼べるのか、疑わねばならないのである。

 「真が偽を隠している場合もあれば、偽が真を隠している場合もある」とは、マグリットの残した言葉である。この絵において、何が偽であるか、何が真であるか。今夜はそれを考えたい。

*1:マグリット財団 http://www.magritte.be/galerie/

*2:鷲田清一『モードの迷宮』『最後のモード』